鳥取藩主池田家墓所(国指定史跡)
この墓所は、初代鳥取藩主池田光仲公から11代慶栄公までの歴代藩主と、藩主の夫人のほか同族75基の墓碑が、254基の灯籠とともに整然と立ち並んでいる。歴代藩主の墓碑は、いずれも玉石垣をめぐらした台石に、3段の台石を据え、その上に鉄趺という異様な顔形をした台石に円頭扁平な墓碑を建てた立派なもので「亀趺円頭」の墓碑と呼ばれている。
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宇部神社
この神社は因幡の一宮で、武内宿祢命が祀られている。長寿の神、官位昇進の神、財宝の神として県内外から信仰されており、初詣には境内や参道が多くの人で埋めつくされる。また明治の中頃発行された1円紙幣には尊像、5円紙幣には尊像と社殿の全景が印刷されている。
伊福吉部徳足比売の墓跡(国指定重要文化財)
因幡の国の豪族・伊福吉部氏の娘徳足比売は、宮中で天皇の給仕にあたる女官(采女)として文武天皇に仕えた。慶雲4年(707年)従7位下をたまわったが、翌、和銅元年(708年)大和で死去。同3年(710年)に火葬され、故郷の因幡に送られて骨蔵器に入れて葬られた。
大伴家持歌碑
因幡国守大伴家持が、天平宝字3年(759年)正月1日祝賀の宴をはり、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事」と年頭の所感をこの歌にたくした。家持は、因幡の国主として在任中(758~761年)、万葉集を集大成し、この歌が万葉集4,516首の最後をかざっている。こうしたことから国府町は万葉のふるさととも呼ばれている。
因幡国庁跡(国指定史跡)
国府・国庁とは、諸の行政官庁が置かれた場所、あるいは役所を指しており、国府の中に国庁が存在した。国府の設立年代は必ずしも明らかではないが、一般的には大化2年(646年)の勅が国司制度の始まりと理解されており、この時期に、諸国の国府もそう遠くない頃に設置されたものと考えられる。
因幡万葉歴史館
奈良・平安時代に因幡の国の国庁がおかれた国府町の文化財・民俗芸能を、単なる展示・公開するだけでなく、ニューメディアを採り入れた新しい形の歴史館。現代人の心を潤す天平ロマンがじっくりと味わえるミュージアム。
長通寺のふすま絵
岡益の石堂のふもとにある長通寺。この寺に八百谷冷泉画伯の大作が数多く残っている。本堂のふすま絵「大波濤」は冬の荒れ狂う日本海の波濤をふすま16枚に描いたもの。また文豪志賀直哉がこの地を訪れ、激賞して書き残した「妙」の一字も本堂前の石碑に刻まれている。
岡益の石堂(国指定文化財)
この石堂は、山陰最古の壮大な建造物で、石柱はエンタシス式であり、その上の大斗にはうず巻を入れた蓮弁と忍冬文様が刻まれている。中国の六朝時代の仏教美術の流れをくむ要素が特に注目されており、わが国では全く珍しいもの。明治28年に安徳天皇御陵参考地に指定され、宮内庁で管理されている。
梶山古墳(国指定史跡)
中国地方で初めて彩色壁画の発見された古墳。平成4~7年の調査では日本最古の方形墳をもつ変形8角形墳であることも確認された。彩色壁画は、奥壁に体長53cmの魚の絵、その上には中心に曲線文、両側に同心円文と三角文が描かれている。古墳の規模は、対角長17m、一辺2.5~8.5mの変形8角形墳で、方形墳は長さ2.0m、幅約14.0mもあり石垣で構成されている。土製品、鉄製品、金の薄延板片が出土しており、7世紀初頭の飛鳥時代に造られたものと考えられている。
高岡/因幡の傘踊り(発祥の地)
国府町には、全国にも珍しい独特の”因幡の傘踊り”がある。踊りは、そろいのゆかた、白の鉢巻、たすきがけ、金銀紙、色紙をはった多彩な長柄のかさに 100個の鈴をつけ、風を切り振り廻しながら踊る姿は、まことに勇壮活発である。由来は徳川末期、この地方が大干ばつとなったとき、五郎作という老農夫が冠がさを3日3晩振り廻して踊り狂い、雨乞いの祈願をしたことに始まる。
学業院(国指定重要文化財)
ここには薬師三尊像と吉祥天立像の4体の仏像がある。和銅年間この地に花慶山光良寺の七堂伽藍が建立、1,000体の仏像が安置されたという。寺院建立時、地鎮のため大勢で賀露の浜から塩水を運び地固めをしたので、この地には蟻がいないと云われている。本尊薬師如来は特に霊仏で、12年毎の御開帳の際のみ拝することができたとも。戦国時代の動乱に光良寺の伽藍は焼かれ、今に残る仏像は土地の人が寺から持ち出し、草土で覆い難を逃れたことから、土堂薬師と呼ばれるようになったという。
雨滝
日本の滝百選のひとつである”雨滝”扇ノ山を頂とする袋川上流にある高さ40メートル、幅4メートルの飛瀑で断崖絶壁から轟音を発して落水する様は神秘的な幽境を思わせる。近くには、筥(はこ)滝、布引の滝など大小48の滝が存在するといわれている。
河合谷高原
扇ノ山の山麓に開ける広大な土地で、そこから眺める景観は絶品。新緑のはるから紅葉の空きにかけて、森林レクリエーションと自然とふれあう憩いの場として賑わう。また、この広大な土地を利用して、育成牛の放牧が行われている。
水車小屋
地区を流れる神護川沿いには多いときで三基の水車が設置され、住民が順番に精米などに使用するなど生活に欠かせなかった。近代化の影響でいつしか姿を消したが、昔懐かしい水車を復活させ、今一基の水車が力強く響きをなし生活の一端を担っている。
栃本廃寺跡(国指定史跡)
栃本部落より大石に通ずる道路の中程左側に史跡栃本廃寺跡と記した標示がしてある。矢印の方向に田圃道を行き橋を渡ると、田圃の畦に直径、高さとも1mばかりの石が目に留まる。これが、塔の心礎である。上面を平らに削り中央に径38cm深さ20cmの円孔を穿ち、更にその底面に径13cm深さ8cmの仏舎利納入の小円孔が作られている。同じ形式のものが2個あり東塔、西塔心礎と呼んでいる。7世紀の初め仏教が伝来した当時は寺院の中心は塔でありその心礎に仏舎利(釈迦の分骨)を納め心柱を立て七重、五重の塔を作ったもので奈良時代前期に創建された寺に多く見られる。国府町には光良院、等ヶ坪等の古廃寺があるが、草深い大茅の地に仏舎利納入の小円孔を持つ古寺院が創建されていたことは、仏教文化の浸潤の深さを物語るものである。
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